秋元正博とオリンピック(part1)

taros_magazine2005-12-09

よく”悲運の…”と称されるアスリートがいる
その競技人生のピーク時に国際舞台で活躍する機会を奪われてしまう”悲運”…間違いなく世界最強ランナーだった時期にオリンピック出場のかなわなかった瀬古利彦や、同じく日本がボイコットしたモスクワオリンピック当時の天才スイマー長崎宏子、無敗で予選通過したヨーロッパ選手権で、開催国に到着したとたんに”犯罪者”同様の仕打ちで追い返されたストイコビッチ率いるユーゴスラビア(88年当時)のサッカー選手たちなど、個人の力ではどうしようもない巨大な渦に飲み込まれてしまったアスリート達の無念を推し量り、そしてある種の同情を込めて”悲運の…”と呼ぶのかもしれない
しかし、この男のそれは”悲運”と呼ぶにはあまりにも残酷かつ悲劇的である
秋元正博…この男について、私たちが知ることができるのは『80年レークプラシッド冬季五輪 スキージャンプ70m級 4位』というオリンピックでの公式記録だけだ…
スピードスケートやスキーのモーグルで世界的に活躍する日本人が増えた近年にあっても、冬のオリンピックで開催されるジャンプに対する日本人の思い入れは別格だ
それは札幌での日の丸飛行隊から始まり、長野での原田雅彦の奇跡の大ジャンプまで、20年近くに渡り綿々と連なる壮大なドラマの仕立てのようなストーリーが、日本人の琴線に触れるからだろう
しかし、その途中でポッカリと抜け落ちた記憶…語られないその空白の歴史の主役こそが秋元である
明治大学在学中から全日本選手権で優勝するなど、日本ジャンプ陣が切望していた”ポスト笠谷”候補の筆頭だった彼
五輪前のワールドカップ札幌大会でも日本人として初優勝を成し遂げた彼の勢いはレークプラシッドシャンツェにやってきても衰えなかった
練習、そして本番前の試走でも圧倒的なジャンプを連発し世界の強豪を驚かせる秋元。しかし、一番脅威を感じていたのは、ほかならぬ秋元本人だった
「ヤバイな…飛びすぎたら…」
そして迎えた本番…後に「あの2本だけが大失敗だった」と自身が語ったジャンプは、メダルにわずかに届かず4位だった
でも、それは決して悪い成績ではなかった。まだ若く有望なジャンパーが世界の大舞台で掴んだ4位…しかし、ここで後々まで彼に覆いかぶさることとなる”影”があった
同じ70m級で、日本の八木宏和が2位と銀メダルを獲得したのだ
札幌以来のメダル獲得という大ニュースの前に、その後秋元がワールドカップや国内大会で見せた圧倒的な強さはほとんど注目されなかった
そしてもう一つ、この秋元と八木の関係を象徴する事実がある
秋元が札幌の金メダリスト笠谷を師と仰いでいたのに対し、八木の実父は当時のスキー連盟のジャンプ部のヘッドコーチであったのである
当時、スキー連盟の中でくすぶっていたこの両者を中心とした勢力の対立…かつての金メダリストとあらたなメダリストを”育てた”コーチによる、指導法や強化選手指定、さらに飛型点の採点に至るまでの”確執”…
レークプラシッドでの八木の銀メダルは、この勢力図に大きな影響を及ぼすこととなり、後に秋元にさらなる悲劇をもたらすことになったのである