秋元正博とオリンピック(part2)

taros_magazine2005-12-10


レークプラシッドから2年、秋元にさらなる試練が襲いかかる
自らの不注意により老人を死亡させてしまうという交通事故を起こしてしまったのだ
失意と後悔のどん底で一度はあきらめた競技生活…しかし、事故の相手方の遺族から嘆願書が出されたこともあり、復活へのわずかな希望を胸に彼は2年近くにわたる謹慎生活を送る
しかし、彼が所属する建設会社には、”ジャンプが仕事”だったオリンピック選手がするような広報活動も講演活動もあるはずもない。彼は工事現場で土と汗にまみれ、アルバイト同然の給料で働き続けたのである
やがてやってきたオリンピックシーズン…しかし、彼がシャンツェに戻ることを許されたのは、サラエボ五輪代表の選考が終了した後のことだった…
そのシーズン、彼のスパークは目を見張るものだった
ワールドカップも含め、参戦した23大会で15勝…当時のスター、マッチ・ニッカネンやイエンス・バイスフロク、それに海外の関係者は日本のプレスにこぞって逆取材した『なぜアキモトはサラエボに来ないんだ?』
ようやく世界にその強さを認めさせた秋元は、86年、ジャンプの本場ヨーロッパで人気を誇る”フライング選手権”に出場することとなった
K点185メートルというオーストリア、バートミッテンドルフの上空…これまでにない滞空時間とスピードにより狂わされた彼のジャンプ感は、そのまま空中姿勢のバランスをも大きく崩してしまう
ランディングバーンに叩きつけられ、考えられない角度に曲がった右足。その映像は世界中に配信され、翌日のオーストリア地元紙は、彼が空中でバランスを失った瞬間の写真を”KAMIKAZE”という見出しで掲載した
その後のフライングのルール変更のきっかけにさえなったほどの激しい転倒…誰もが『今度こそ秋元は終わった』と思う中、彼だけが2度目の復活を信じていた。そしてその日は現実となったのである
87年、復帰第1戦となった宮様大会で3位、さらに翌クナイスル杯で2位と成績を上げ、ついに翌日開催された伊藤杯で優勝という見事な復活劇…つめかけた観衆の「秋元ガンバレ!」の声に号泣しながらも、それらの大会を彼は通過点と心に決めていた
「これまで支えてくれたチーム関係者のため、ファンのため、そして苦労をかけ通しの家族のために、オリンピックに出たい、そして勝ちたい…」そんな思いで、彼はカルガリーに向けてコンディションを整えていたのだが…