秋元正博とオリンピック(part3)

taros_magazine2005-12-11


そして迎えた88年。傷だらけの身体をいたわりながら、代表選考会ヤマ場と思われた1月末のNHK杯に照準を合わせ、調整を続けていた秋元のもとに信じられないニュースが届く…
あの八木コーチ率いるジャンプ部は1月半ばに突然オリンピック代表選手を決定してしまったのだ
それまで”結果よりも調整”として大会に臨んでいた彼の成績では、代表に入れないのは明らかだった。ただ、彼よりも明らかに成績の劣る選手…八木コーチの所属先の…が選考される一方、このシーズン何度も優勝を飾っていた秋元のチームメイトが選考から漏れるというあまりに恣意的な代表編成に、当時の秋元のコーチ役であった笠谷、そして秋元本人が無念の思いを短く語った
NHK杯に間に合えばいいと(連盟から)聞かされていたので…」
かくして秋元のいないカルガリーは、この大会から始まったジャンプ団体で参加国中最下位という成績に沈んだ
そして翌年、秋元は静かに現役を退いた
やがて時代は秋元が見いだした葛西、八木宏和が育てた船木、そして原田らに引き継がれ、ふたたび日本ジャンプは栄光の時代を迎えることになったのだが、その原田雅彦リレハンメルでの世紀の失敗ジャンプで日本中を失望させた翌年、秋元の名前が思わぬところでニュースになった
とんねるずのバラエティ番組収録中、一般のスキー場のゲレンデに設置された小さなジャンプ台で着地に失敗転倒し、頸部損傷の大けがを負ってしまったのだ
レークプラシッドの銀メダリストがジャンプ部の強化委員長に就任し、着々と実績を積み重ねている裏で、メダルを逃した天才はバラエティ番組に出演していたのだ…
あまりに残酷な明と暗…それでも彼はジャンプを捨てることはできなかった
何度も所属先が廃部となる不運に見舞われた愛弟子、葛西が所属する土屋ホームのジャンプ部のコーチとしてシャンツェに戻ってきた彼は、ときおりテレビ解説にも登場するようになった
そしてしばらく表舞台から遠ざかっていた笠谷は連盟のスキー部長に就任し、その下で日本ジャンプ陣の強化を図る八木宏和は「秋元さんは別世界の強さを持ったジャンパーだった」と振り返るまでにいつしか時は流れていた…
2005年には、秋元はあの鈴木宗男率いる新党から衆議院選挙に立候補した。結果は最下位で落選だったが、それでも彼の表情からはあの頃のような影は消えていた
その彼について、最近ちょっとおもしろい話を耳にした
今、世間で脚光を浴びているある人物が、尊敬する人として秋元の名を挙げていたのだ
「数々の苦難と恐怖心を克服し、なおもジャンプし続けた彼を心から尊敬する」
大胆なアイデアと行動力で、全国有数の巨大自治体を改革し続ける横浜市長中田宏氏の言葉である
確かに彼は”悲運の天才ジャンパー”だったかもしれない。しかし忘れられたジャンパーではなかった
彼の生き様は、あの力強く美しいジャンプと同様、今なお多くの人の心に刻まれているのだ
そしてまた、オリンピックがやってくる
今度こそ、彼はオリンピックを心から楽しむことだできるだろう


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